トゥルネーの町のある場所である
リールと
モンスの間の青いエリアは17州の1つであると考えられていた。一方、
リエージュ司教領はこれらの州の一員と考えられていなかった。この17州は、ネーデルラント全国三部会に代表者を送っていた州と常に同じ17州ではなかった。時には1つの代表が他の代表とまとめられたこともあった。通常、ズトフェンはゲルゲルンの一部であったし、リンブルフはブラバントを頼っていた。一方、フランドルのフランス語を話す都市は、別々の州と認められることもあった。
ネーデルラント17州の歴史は、
1477年に
ブルゴーニュ公国を治めていた
シャルル突進公が戦死した際に男子の継承者がいなかったために、娘の
マリー女公の夫である
ハプスブルク家の
マクシミリアンによって継承されたのが始まりである。マリーが落馬によって死亡した後、公国内の有力貴族が反乱を起こし、マクシミリアンはブルゴーニュ公の退位を余儀なくされる。その後、この地域は息子の
フィリップ美公、孫の
カール5世が治め、カールの時代に17州全てを統合した。その最後が
1543年のゲルデルン州であった。これらの州の大部分は
神聖ローマ帝国の下に置かれ、カール自身はマクシミリアンの後継皇帝となった。フランドルとアルトワの2州はフランスの領土であったが、1529年の
カンブレー講和条約によりハプスブルク家に譲渡された。1549年の国本勅定では、これらの州は将来も統一された状態でないといけないと記された。
南部のフランドル、ブラバント、ナミュール、エノー、ルクセンブルクなどの州は、
パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの軍事・政治的な力によりスペインの支配下に戻された。特に有名なのが、アントウェルペン包囲(
1584年〜
1585年)である。そのため、これらの州は「スペイン領ネーデルラント」もしくは「
南ネーデルラント」として知られていた。北部の連合州は八十年戦争の間、ランブール、ブラバント、フランドルの各地域を保持し続けた(参照)。