しかし、共和国政府の権力基盤は不安定であった。上のような経緯があったために急進的左派勢力と敵対する一方で、屈辱的な
ヴェルサイユ条約を受け入れて過酷な軍縮を行ったことは、急進的右派勢力からも激しい批判を受け、一部の軍人は
カップ一揆を引き起こした。1921年には、連合国による
ロンドン会議において1320億金マルクという巨額の賠償金が定められた上、オーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票において、ドイツ帰属が多数(60%以上)だったにもかかわらず、地下資源が豊富な地域が
ポーランドに割譲されることになり、ドイツ国民のヴェルサイユ体制への反感を高めさせた。賠償額が決定された1921年の段階では、政府は諸外国の要求にできる限り応じる「履行政策」を採ったが、1922年の後半になると履行政策は放棄され、賠償に含まれていた石炭引き渡しが遅滞し始めた。これに対してイギリスの反対を押し切って
フランス、
ベルギーが実力行使に出て、1923年に
ルール地方が軍事占領された。