1260年に
モンゴル帝国の第5代
皇帝(
カアン、
大ハーン)に即位した後のいわゆる「
元」(大元ウルス、大元朝、元朝)
[至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号を漢語で「大元」と改められた。「元」とは後世の略称。]の皇帝
クビライ・カアンは、
1268年(
日本の
文永5年・大元朝の
至元5年)に第2代皇帝
オゴデイ以来の懸案であった
南宋攻略を開始する一方、既に服属していた朝鮮半島の
高麗を通じて、
1266年に日本に初めて通交を求める使者を送ろうとしていた。『
元史日本伝』によるとこの使節を送るのは高麗人で元の官吏である趙彝の進言からとある。しかし高麗の
宋君斐・
金賛が案内する蒙古の使節ら(正使・
黒的、副使・
殷弘)は
巨済島まで来て、航海の困難を理由に引き返し、クビライに対して日本への通使の不要を説いた。クビライは予め「風濤の険阻を以って辞となすなかれ」と日本側への国書の手交を厳命していたが、その「風濤の険阻」を理由に使者の両名は渡海もせず引き返してきたことに憤慨してこれを却下、再び高麗に命令し、使節として高麗国王
元宗の側近であった起居舎人・潘阜
[元宗から忠烈王の時代に活躍した高麗の官人。高麗の中書門下省の舎人で従五品である起居舎人であった。おもに高麗国王の身の回りの庶務を担当した。クビライ宮廷から派遣された黒的・殷弘らが高麗へ来着したおりにを彼らを饗応していた人物で、その面識のために使者を代行させられたのではないかと考えられている。]が派遣され、1268年正月に
大宰府へと到着。大宰府の
少弐資能(武藤資能)は蒙古国書(日本側では牒状と記録)
[南都東大寺尊勝院所蔵で東大寺宗性筆の蒙古國牒状『調伏異朝怨敵抄』には「上天眷命大蒙古國皇帝、奉書日本國王、朕惟自古小國之君、境土相接、尚務 講信修睦、況我祖宗受天明命、奄有區夏、遐方異域、畏威懷徳者、不可悉數、朕即位之初、以高麗无辜之 民久瘁鋒鏑、即令罷兵還其疆域、反其旄倪、高麗君臣、感戴來朝、義雖君臣、而歡若父子、計王之君臣、亦 已知之、高麗朕之東藩也、日本密迩高麗、開國以來、亦時通中國、至於朕躬、而無一乘之使以通和好、尚 恐王國知之未審、故特遣使持書布告朕意、冀自今以往、通問結好、以相親睦、且聖人以四海爲家、不相 通好、豈一家之理哉、至用兵、夫孰所好、王其圖之、不宣、至元三年八月日」とある。なお同一の記載が「元史卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國」にもある。両者の比較と解説についてはを参照。]と高麗王書状
[「右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我國臣事 蒙古大朝、稟正朔有年于 茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。今欲通好于貴国、而詔寡人云、『海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。漢唐而下、亦或通使中国。故遣書以往。勿以風涛険阻為辞。』其旨厳切。茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。且貴国之通好中国、無代無之。況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。但以無外之名高於天下耳。若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。惟貴国商酌焉。」]を受け取り、鎌倉幕府へ送達する。(しかし、日本側からの返牒の気配がなかったためか、太宰府来着から七ヶ月後に潘阜は高麗へ帰還しており、高麗は同年10月には潘阜の遣使が不首尾に終わった旨を元朝宮廷側に潘阜ら自らが赴くなどして報告している)