崩壊の最も大きな原因は、
均田制および府兵制を支える主戸(戸籍に登録された戸)が急速に減少したことにある。これら主戸が税負担に耐えかねて逃亡(逃戸)し、本籍地を離れた場所に落ち着いて耕作を始めることが多くなっていた。本籍地を離れた者のことを
客戸と言う。府兵制は戸籍を元に兵役義務を負わせる制度のために客戸が増えれば徴兵数は減ることになる。
このことにより、兵士の交代要員を確保することが難しくなり、本来ならば一年で交代の兵役が3年・4年と長引くようになっていた。また唐の領土が拡大しすぎたために辺境ともなるととてつもない遠い地への兵役となっていた。これらの原因が
白居易の『新豊折臂翁』
[兵役を逃れるために自らの臂を折った翁のことを謡っている]に謡われるような兵役拒否を生むことに成り、更に兵士を確保することが難しくなる。
他方、軍事面でも
710年の河西節度使の設置を初めとして十の節度使が設置された。その元で駐屯する兵士は、徴兵制たる府兵制によって集められたものではなく、
募兵制である
長征健児制によってのものであった。この制度における兵士は辺境に
屯田をしながら半永久的に定住するようになり、国家から給料として衣類を提供されていた。